
本田宗一郎の概要
世界で活躍する自動車のホンダ(本田技研工業)、そんなホンダをつくった男、それが「本田宗一郎」です。
本田宗一郎は17歳のとき、東京の修理工場で働き始めました。最初の半年は毎日毎日、主人の子供のお守りだったそうで、それが宗一郎の社会人としてのスタートでした。
1948年(昭和23年)宗一郎が41歳のとき、「本田技研工業」を創立して社長となり、世界で通用する自動車会社「ホンダ」の社長として活躍していくことになります。
本田宗一郎からヒントを得る
そんな宗一郎は、人生の中で多くの格言・名言を残しています。その中からいくつかを紹介します。
会社のために働くな
会社のために働くな、自分の生活をエンジョイするために働きにこい、それで一生懸命やることで会社ともどもいい。
本田宗一郎
設計の優先順位
まず優先するのは、その車を一番長く使う人。つまりお客さんである。いまさらいうまでもないが、お客さんが満足するように考えない設計は無意味だ。その次に、サービスする人の立場を尊重してやらなければいけない。その次につくる人の立場を考えるべきだ。いちばん犠牲になるのが設計者自身である。
本田宗一郎
スピードがなによりのサービス
スピードの前には、どんなサービスも問題にならないということである。つまりスピードそのものがなによりのサービスであり、少し大ゲサにいえばスピードは人間尊重であるということだ。
本田宗一郎
今は年寄りのほうが世間知らず
昔は若い人を世間知らずだといったものだが、現在は逆。あまりにも急激に世の中が進んでいくのでついていけなくなっているのだ。
本田宗一郎
苦しい事をやるのが責任
人間というもの、一度やると、それからあまりはみ出してやるのはイヤなものだ。とにかく苦しいことはだれも好んでやる気はしないが、そこをあえてやるのが仕事に責任をもつ態度といえる。
本田宗一郎
熱い人間の面目
ガリレオが「それでも地球は回っている」とつぶやいたように、権力をもった者が、どんな真理を否定しても、真理は真理として残る。真理は一見冷たい。しかしその真理を押し通すところに、熱い人間の面目がある。
本田宗一郎
納得が能率の根本
みんな弁当をもって会社にくるのは、人のために働きたくて来ているのではない。それを上の人が会社の金で遊んでいるようじゃ、真剣になって働く馬鹿はない。ほかへ移るわけにも行かないから、ここで長いものに巻かれてホドホドに生きて行こうという気になった者を、能率能率と引っぱり回しても、だれもついて来っこない。
本田宗一郎
まとめ
- 本田技研工業の社長である
- 人生の中で多くの格言や名言を残している